2021.9.30

大工の歴史

こんにちは!

リフォームギャラリーメープルの山本です。

お家は、様々な職人さんの手によって建てられます。
その中でも大工の歴史は非常に長く、飛鳥時代にまでさかのぼると言われているのをご存知ですか?

今回は、そんな大工に関する歴史をご紹介していきます!

先程も述べたように、その歴史は飛鳥時代にまでさかのぼります。
飛鳥時代といえば、やはり一番に浮かんでくるのは「聖徳太子」ではないでしょうか。
十七条憲法、冠位十二階の制定や遣隋使の派遣など様々な活躍を見せ、天皇中心の政治を目指した偉人ですね。
そんな聖徳太子は、「大工の神様」とも呼ばれています。

なぜ「大工の神様」なのか?

聖徳太子は、中国から「差し金(曲尺)」を持ち込み、日本に広めたと言われています。
差し金は現代も大工さんの必須道具として使われています。

↑差し金

また、大工を集めて建築の基礎を教えたり、職人の組織づくりに努めたそうです。
さらに、聖徳太子といえば法隆寺ですが、法隆寺をはじめ、たくさんの寺院の建設に貢献したことから「大工の神様」と信仰されているんです。
現代の建築の基礎は聖徳太子によって確立されたといっても過言ではないですね。

聖徳太子が整えた職人の組織では、大工は「右官」と呼ばれていました。
一方で土に関わる職人さんは「左官」と呼ばれており、これは今でも使われていますね。


なぜ右官だけ大工という呼び方に変わったかというと、これには諸説あります。
1つは、日本には左に上位、右に下位とする「左上右下(さじょううげ)」というしきたりがあったから。
また、奈良時代になると宮中の殿舎の造営を担当する木工寮という役所がつくられ、その中に「大工」「小工」「長上工」「番匠工」という役職が置かれました。 この時の大工とは「職人の長・上位者」という意味でしたが、その後上位職人は「棟梁」という言葉に変わり、建築に携わる木工職人さん全般を大工と呼ぶようになったからという説もあります。

そんな建築現場での職人さんの種類は、江戸時代には100を超えるほど多岐にわたっていたそうです。
中でも大工・左官・鳶(とび)は、江戸の街を築き上げる花形職人として、街の人々からも一目置かれ、もてはやされていたと言われています。
※「鳶」…建築現場の高い所で作業する職人。

しかし、大工は下積み時代が非常に過酷で、12歳ごろには親方の家に住み込みで弟子入りして洗濯や風呂焚きなどの雑用をこなすことが日課となります。
その1~2年後に現場には出させてもらえますが、道具の名前など教えてもらえる程度で、20歳を過ぎても半人前扱い。
そうした試練を乗り越えて、10数年後にやっと一人前になれます。

一人前になってからは、賃金も高く、大出世です。
さらに江戸時代には火事が頻繁に起こっていたらしいので、次々に仕事が舞い込んできて、大工は非常に儲けていたんだとか。

こうして大工の活躍は江戸からだんだんと全国に広まり、地域で活躍する職人が生まれていったんですね。
江戸時代の城下町では職業別集住制がとられていたため、当時、大工たちが多く住んでいた「大工町」という町名が、現在も全国各地に複数残っているのも面白いです。

また、大工は時代とともに細分化され、神社仏閣の建築・修繕を行う「宮大工」、障子やふすまなどの建具を製作する「建具大工(表具師)」、木造船の建造・修理を行う「船大工(船番匠)」など多岐に派生しています。
しかし、時代とともに継承者が途絶えつつある専門職種もあるようです。

聖徳太子の法隆寺をはじめ、大昔に作られた建築物が今もなお残っているのって凄いことですよね。
特に当時は今のような便利な機械なども無かったのに、それを人の手でつくったと考えると、建築物は人の知識と技術が形になった素晴らしいものだなと改めて思います。

今回は雑学のようなお話でしたが、いかがでしたか?
こうして歴史をさかのぼってみると、面白い発見がありますね✨
楽しんでいただけたら幸いです♪

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